MBA流ロジカル写真術 論理的思考でセンスの良い写真を撮る方法

センス(感性)をロジック(論理性)で乗り越えられるかを挑戦していきます

ロジック(論理性)でセンス(感性)を超えられるかに挑戦します

写真とは写真家の眼差しである

写真を真剣に撮り始めると、少し哲学的ですが写真とは一体何なのかと考える時があるのではないでしょうか。今回はそれについて少し考察をしてみようと思います。

真実を写すのが「写真」

写真とは何かを考える時、カメラの進化を科学的、歴史的に考察するものもありますが、今回は写真を撮るという行為を掘り下げてみたいと思います。

例えば写真を撮るという行為を要素分解してみると、物語の主人公である被写体と撮影者、舞台である場所と時間、そしてそれを写す機器としてのカメラに分解できます。そして、それらの全てを一瞬で記録するのが写真です。

写真が発明される以前は絵画が同じような役割を果たしていましたが、写真と絵画の違いとして、写真は空想やその場にないものは写せないということです。最近はインスタ映えなど加工してあるものも多いですが、基本的にはその時、その場所にある「真実を写す」ものが写真です。

写真の主体は誰か

写真というアウトブットの主役はそこに写る被写体であり、どうしてもそちらが注目をされます。しかし、写真を撮るという行為の主体は撮影者です。ビジネスの5W1Hのように、いつ、どこで、何を、どのように撮るか、それは主体である撮影者が決めることができます。その視点に立った時、以下にあげる写真集はとても興味深いものでした。

写真家 白洲次郎の眼~愛機ライカで切り取った1930年代

白洲次郎は連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍した人物で、当時としては珍しくケンブリッジ大学にも進学しており、容姿も長身でダンディな紳士として色々な所で紹介されています。私も大好きな人物です。

この写真集は題名にもある通り、白洲次郎の「眼」がテーマです。1930年代、彼が愛機ライカで自らピントを合わせ、シャッターを切った風景や人物が掲載されています。私達はそこに写る被写体ではなく、あの白洲次郎が何をどんな思いで見ていたかに強い興味を抱き、心を惹かれるのだと思います。正に被写体ではなく、写真家の眼が主役の写真集です。

写真は撮影者の写し鏡である

写真には被写体が写っていますが、人物の場合は被写体と撮影者の関係性も写ると思います。被写体が自分に向ける表情は、相手に対する自分の行動の写し鏡です。撮影者が不機嫌な顔では、相手も笑顔を向けてくれません。当たり前ですが、写真は被写体と撮影者、両者がいて初めて成り立つのです。

浅田家~亡くなった家族との記念写真を撮る

浅田家という映画があります。ラストの方で、父親が亡くなった家族の記念写真を撮るシーンがありました。写真には父親は写っていなくても、記念写真の向こう側にはいつも父親が撮影者として存在している。このシーンには、私も同じ父親として非常に共感をしました、

私は自分の家族の写真を多く撮りますが、子供達が大きくなった時、または将来自分がいなくなった時、私がどれ程家族を愛し、暖かく見守っていたか、写真から私の思いや眼差しを感じて欲しい、と同じような思いで撮影をしていました。

写真とは、被写体を記録するだけではなく、撮影者が世界をどう見ていたか、その眼差しを記録するものでもあると私は思います。

自分の眼差しを次の時代に残したい

自分が撮った写真は将来どうなるのでしょうか。個人で保管する写真やデータは、自分がいなくなれば処分されていくでしょう。最近はウェブやデジタル全盛ですが、データはもっと簡単に操作ひとつで跡形もなく消え去ります。

ただ、人間は歳をとってくると自分が生きた証を残したい、と思うようになるものです。写真を公に公開して残すということでブログなどもあるかもしれませんが、長い年月を考えると本として残す方が電子よりも長く残るかもしれません。

私は「377975km2」という写真集に自分の写真が掲載されたことがあります。この本は、コロナ禍の1年間、色々あった日本(国土面積377975km2)で起きたこと(作品)を記録するというコンセプトの下、Japan Photo Award + Intuition labelが選考した写真家で構成する作品集です。そして、この写真集は国立国会図書館※に保存され、半永久的に残されます。
※日本は国立国会図書館法により、国内で発行されたすべての出版物を、国立国会図書館に納入することが義務づけられています。納本された出版物は、現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されます。

私が掲載されたのは、桜の木の下で子供達か笑顔で笑っている写真でした。遠い未来で誰かがこの本を見て、私の思いや眼差しを感じてくれたとしたら・・・。たった一枚ですが、私の想いや愛したもの、そして写真家として私の生きた証を次の時代に残せたのではないかと思います。

今日はこの辺りで。